2013年5月10日金曜日

映画「蒲田行進曲」を想う

あのテンポに圧倒された。

深作欣二は天才だと思った。

負けたと思った。

映画人にはなれないと思った。

泣いた。

感動した。

アパートの二階から放り投げる布団、走っている車のフロントガラスに飛び乗るシーン、

爆風と共にビルの屋上から落下するシーン、コレがコレなんで・・・・と小指をたてるシ

ーン、帰郷での小さな駅の歓迎ブラスバンドのシーン、ヤスが小夏にあたり部屋中を破壊

するシーン、待ちに待った階段落ち、そしてラストの「カァーット!」。

もう何から何までが「濃い」のである。

名作?秀作?いやいやダジャレではないが「フカサク」なのである。

映画人の人生をあのような形で描き切ったフカサクはおそらく自分を

撮ったのではないだろうか。

映画が好きで好きでたまらない人たちへの賛歌。

裏方への賛歌。大スターへの賛歌。素晴らしい映画として後世に残ることだろう。

でも、将来、誰かに挑戦してもらいたいものだ。

「現代版蒲田行進曲」なるものを。指揮者で変わる交響曲のように、監督で変わる映画と

いうものがあってもいいのではないか。

寅さんシリーズならぬ蒲田行進曲シリーズ。

監督は毎回変わる。

毎回手腕や才能が試される厳しい試練としての映画づくり。

四年に一度くらいでどうだろうか。

2013年5月9日木曜日

不滅であってほしいラーメン専門店

もう今はないかもしれない。

結婚する前に女房に教わって二人ででかけた小田原のラーメン専門店「味一(あじいち)」。

カウンター席7席。

まさに行列のできるラーメン屋

麺がなくいなったらそれでその日の営業は終わり。

残念ながら列にあぶれた客が「スープだけでも飲ませてくれ」と言ったという伝説まである。

塩、しょうゆ、みその3種しかない。

女房と二人で小田原厚木道路の往復料金を払いわざわざ行った750円のラーメン。

つまり一杯2千円近いラーメンなのである。

あとを引く味とはよく言ったもので、無性に食べたくなるのである。

日本一おいしい店だと思うが、それも人それぞれの好み。

多くは語るまい。

あの味はきっと何かの「魚」を使っていると思う。

何かはわからないが隠し味に強烈なノウハウが潜んでいると思えるのである。

食べ終わったの満足感ったらない。

ああ、来てよかったと心底思えるのである。あのおやっさんまだ生きているのかな。

裏の自宅から奥さんが麺を運んでくるのが懐かしく思い出される。

小田原、線路沿い、味一・・・・。

これだけしか情報がないが、まだやっているのであれば絶対にお勧めです。

750円の芸術とはこういうものかと唸りますよ。

誰か弟子でもついでくれていないかな。

でも夫婦二人でやっていたからなぁ。

2013年5月8日水曜日

我が子

初めてわが子が生まれた時。

それまで血のつながった二人の赤ん坊がともに姪っ子だったことから、何故か我が子も女の子と思いこんでいたがそうではなかった。

思い込みの分だけ長男誕生にすこしの戸惑いがあった。

しかし日が経つにつれ男を産んでくれた女房に感謝の気持ちが募っていった。


子供持つ親の気持ちとはこういうものか。生まれて初めての感情が湧いた。


ある晩に川の字で寝ていたら突然揺れ出した。大きな地震だと思う前に体は反射的に隣の息子に覆いかぶさっていた。


本能である。


何の迷いもなく、飛び掛かるように被さったのである。


暗闇の中で女房と目があった。守ったのが息子であり、女房ではなかったことになぜか申し訳ない気持ちになった。


本能だから仕方ない。


住んでいたのは線路沿いのアパートだった。

休みの日は息子と二人して、走る列車の運転士に手を振った。

そうすると必ずと言っていいほど、汽笛をならし応えてくれた。

大人の自分でもうれしくなった。そこに住んだのは2年あまりだった。


そして娘が生まれた。息子が喘息となり郊外への引っ越しを余儀なくされた。


目の前にクリニックの立地する場所に居を構え、スイミングスクールに通わせたら完治した。


15年前の話である。


あの頃は子供成長そのものが人生だった。どんなことがあっても一生かけて守り抜こうと思った。

今、守ってあげられているのだろうか。


こんな非力な親父をどう思っているのだろうか。

2013年5月3日金曜日

新宿

かれこれ何年ここで過ごしたのだろう。

学生時代はこの街だった。

深夜のアルバイトでそのまま店に泊まり、翌日昼過ぎに店で目覚めて、そのまま新宿の銭湯へ。

ハンバーガーをかじりながら街をぶらぶらしているともう開店準備の時間。

自分って学生の身分だよなぁと、ふと本分を思い出し、そしてその頭を振り払うように店に入る。

毎日がこの繰り返しだった。

むさぼるように存分に読書し存分に映画を見た時代だった。

そこらへんの学生よりはかなり稼いでいたがいわゆる放蕩生活には追いつかない。

学生仲間のほとんどが六本木を遊び場としていた時代に、自分だけは断じて新宿だった。

この街の汚さが美しかった。

店の仲間は新宿のど真ん中の汚いアパートに暮らしていた。

たまに帰る自分の住家は世田谷だったから、このアパートの汚さは閉口した。

都会でしがみついて生きるというのはこういうことを言うのだろうと思った。

一見、チンピラ風の彼は帰郷した際にはお袋さんにだまって1万円を置いてくるという。

誰も教えてもいない親への思慕である。

そこから彼はどこにいったのだろうか。

私とのちょっとしたいさかいで店を飛び出して行った。

自分と言えば、その後、何もなかったかのように就職し企業人となった。

それこそ今、女房子供に手を焼きながら生きている。

郊外に家を建て普通に通勤し普通に帰宅し普通に飯を食い、普通に眠っている。

私の中に住み着いたはずのあの新宿の根性はどこに残っているのだろうか。